台風12号接近
鎮まりつつある大波
迷走台風10号は、日本本土にとんでもない災害と悲しい爪痕を残して日本海に去りました。奄美近海でウロウロされて気を揉まされましたが、思いもかけぬUターン。
おかげで奄美地方は被害に遭うこともなく、むしろ砂糖黍農家にとっては恵みの雨を頂くこととなり、ホッとしている事でしょう。岩手・青森・北海道地方その他各地で被害に遭われた方々には、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
10号台風の今後の進路や被害状況報道の最中に、12号が発生(9月1日)したと気象情報で知らされる。進路予想から「奄美直撃」の恐れあり、と直感。直ちに台風対策に取り掛かる。
9月2日の夜には最接近とのことで、夕方から作業を始める。先ずはガレージのシャッターに煽り止めを施す。次に、犬小屋が吹き飛ばされないようロープで固定する。庭先の垣根の補強、庭木の支え、椰子の木の落ちそうな葉を予め切り落とす、植木鉢その他飛ばされそうな物の移動などなどを済ませ、最後にサッシの雨戸を閉める。
以上の作業を済ませ、停電用の機材を取り揃えて、後は「何事も起こらないよう」念ずるのみ。
思いが通じたのか、はたまた進路予想が間違っていたのか、雨は小雨、風は微風の情況で夜明けを迎える。
台風情報を確認。現在位置「奄美大島の東海上」「奄美大島北部は暴風域」思わず耳を疑う。が、雨は降らず風も吹かずの状態で、時おり雲間から陽射しが漏れ出すのを確認し、「何事も起こらなかった」ことに感謝しながら後片付けに取り掛かる。
ただ今午後6時、西の空で夕日が輝いています。
本土に災害をもたらさない事を祈念しながら・・・。
id:akasyobin でした。
迷走台風10号
10号襲来に備え 舟揚場に避難する漁船達
何処へ行きたいの、10号さん
台風に関しては、今年は眞に異常だ。
7月2日に第1号が発生。7月まで台風が発生しなかったのも異常だ。
ちなみに去年は、7月中に9号から13号まで5個の台風が発生している。
発生場所と、その後の進路については皆様ご承知のとおりで、赤道付近で生まれた熱帯低気圧が発達して、一定の基準に達したものが台風となります。
(ここで台風の講釈をするつもりはありません。)
台風10号の進路が「変」と思いませんか。
日本本土の遥か東の海上で台風となり、普通は進路を北を中心に東か西に向かうのですが、10号は全く逆方向南西に進んで行くではありませんか。「変」ですね。
しかも、奄美近海で迷走・停滞を繰り返しながら勢力を蓄えているのです。
「変」な台風10号ですが、島民にとっては悲喜こもごもで、漁業者や観光業者にとっては、稼ぎ時である夏休み、一日でも長く晴天が続いてほしいし一方、農業を生業とする者には台風の接近を心待ちにしているのです。
台風が近くまで来ているとは思えない静かな海浜
奄美地方は、6月中旬の「梅雨明け」以来晴天が続き、農作物の生育もよく順調に推移して来たが、7月に入って日照りが続き台風の雨を期待しているのです。
地球温暖化の影響が、台風の進路まで「変」にしてしまったのか・・・。
id:akasyobin でした。アリガッサマリョウタ。
ワ キ ャ シ マ 散 歩 【 最 終 回 】
「黒糖地獄」と笠利鶴松(カサンツルマツ)
吾家を中心に大笠利集落周辺を、3回に亘り紹介してきましたが、そろそろネタも尽きそうなので今回で最終とします。
奄美大島には、溢れんばかりの民謡があります。「うたの島」と言われるほど民謡が盛んなところです。それぞれのシマにはそれぞれの唄者が居て、日夜自慢の喉を競っています。
日本民謡大賞(日本テレビ主催)の第2回(1979)大会では、築地俊造さんがまた、第12回(1989)大会では、当原ミツヨさんが「民謡日本一」という栄冠を勝ち得られました。
築地俊造、当原ミツヨの両唄者は、奇しくもワキャシマ大笠利の在住者であったこと、またその後の大会においても笠利地区から「民謡日本一」を勝ち取る唄者が続出していることは頼もしい限りです。
さすがは奄美民謡の継承・保存に力を入れている中心的地域である「笠利地区」ならではのことと自負しながら、一シマッチュとして溜飲を下げているところです。
前置きが長くなりましたが、ここで奄美民謡について、その成り立ちや形式について少し説明させていただきます。
「詩型は、上の句八、八、下の句八、六の四句三十音から成り立っており、形式・内容ともに民謡というより和歌に近い」また「詠む歌と唄う歌とが岐れない以前のまま、現在の三味線音楽に、八月踊りに歌われていて、この点において万葉やオモロ(沖縄の方言で 歌 の意)などの古典文学的な在り方とは大いに違う。概して素朴であるが、哀切極まりなき旋律には、言い知れぬ美しさがあって、深く人々の心を打つものがある」
「奄美の民謡は文字通り庶民の偽らざる魂の叫びであり、生活の生々しい反映でもあり、また、誌されざる歴史の声である」
【文 英吉(かざりえいきち)著「奄美大島物語」より引用】
と述べられている。
とりわけ「庶民の偽らざる魂の叫び」「生活の生々しい反映」「誌されざる歴史の声」などは、奄美民謡を嗜み奄美の歴史を紐解く者にとっては、痛切に心に響くものがあります。
奄美群島の長い歴史の中で、「黒糖地獄」と呼ばれる一時代がありました。
奄美群島(トカラ列島から与論島まで)は、鹿児島県に属します。明治までの藩政時代は薩摩藩の直轄領で、江戸時代には琉球王国の大部分をも支配下に置く大藩であった。
しかし、領内の土壌の多くが稲作に適さないシラス台地で土地が貧しく、収益が上がらなかったことに加えて、台風や火山噴火などの災害を受けやすく、藩政初期から財政は窮迫して、貧乏藩と言われていたことは歴史の伝えるところです。
特に、江戸時代の初期から中期にかけての薩摩藩は、言語に絶する窮乏ぶりだったようである。それは、薩摩藩に命じた「木曽川工事」をはじめ、徳川幕府の絶えざる経済的圧迫によものと言われている。
しかるに、その財政を立て直し名実ともに天下の雄藩となり、倒幕明治維新の急先鋒となって、維新断行の主動力となり得たものは何か。
これは、ひとえに支配下に置く琉球王国 (沖縄県)を通じての支那(中国)貿易と
奄美群島における黒糖搾取によるものであることは、幾多の史実が証明している。
ここでは、薩摩藩の大島黒糖政策なるものを顧みながら「黒糖地獄」と呼ばれた時代を振り返ってみたい。
慶長15年(1610)薩摩藩により、奄美大島に初めて砂糖黍を持ち込み移植したところ、好成績をあげたことから、大いに増産に努め翌年の生産高はわずかに百斤(60㎏)そこそこだったのが、5年後の元和元年(1615)には71万斤(426トン)という飛躍的生産量を示し、その後もその程度を上下しながら経過した。
当時、砂糖は一般庶民に普及することなく、ごく限られた上流階級の間で珍重されていた。薩摩藩では、幕府に対する恒例の進納物として使われていた。
このような貴重品を、貧乏な薩摩藩が着目せずにおかず、以来、産業の重点を大島黒糖に移して、大いにその収奪に努めた。その結果は上述のとおりである。
薩摩藩は、大島黒糖を藩の唯一の財源として確保するため、天保元年(1830)に、大島黒糖の強制総買上げを実施した。この独占政策に伴い、一切の黒糖政策は実に峻厳を極めるようになった。
これにより、島民個人の自由売買を厳禁とし、他藩への流出を防いだのである。
島民に対しては、もしこれを犯す者があった時は「死罪」に処せられた。また、自家用などに隠匿する者は「遠島処分」に付し、製造粗悪な物を出した者には「首かせ(かぶり)」、「足かせ(しまき)」の刑が科された。更に、砂糖黍の切り株が高すぎたりこれを齧ったり、製糖作業中にそれを舐めたりしただけでも札をはかされ、子供たちに至っても砂糖黍の窃食が見つかれば「棒縛り」にされ地上に曝したという。
まさに「黒糖地獄」と言われる所以である。
島の民謡に、次のような歌が残っています。
しわじゃ しわじゃよ
ウギ切り しわじゃ
ウギの高切り 板はきゅり
※ しわ=心配 ウギ=砂糖黍 意は省略します。
整然と生育中の砂糖黍
「黒糖地獄」をすべて紹介するには字数が足りません。奄美群島民の2世紀半に亘る
言語に絶する苦難は、決して偽りや誇張ではありません。
かって西郷隆盛が、奄美大島に流謫中、一農夫が藩庁役人から見るに忍びない制裁を加えられているのを目撃、藩庁役人に厳しく抗議し役人に詫びさせたことや、時の代官と交渉して砂糖関係の無実の罪で拘束されている3百数十名の者を、即時釈放させたこと、さらに、西郷隆盛が大島遠島を許され鹿児島に帰着した時、旅装も解かずその足で藩庁に赴き、「大島外三島砂糖買上方につき藩庁への上申書」を提出された。
上申書は5か条からなり、大島における砂糖政策の過酷極まる実情と、島民の困苦を訴えるとともに、藩庁の反省を促し、一刻も早く島民を救うよう献言等々の内容であった。
それでも薩摩藩は「黒糖政策」を止めようとせず、島民からの搾取は続けられたのである。その結果、かっての負債500万両はすっかり償還し、嘉永元年(1848)頃には
100万両もの余剰金が出るようになった。その後藩財政は順調に進展し、江戸時代末期には天下の雄藩として、押しも押されぬ地位と実力を備え、倒幕運動の急先鋒となったことは歴史が語るところである。
徳川幕府が、財政的に薩摩藩の台頭を抑圧しても、大島の黒糖が根強くこれを支えていたのである。すなわち、奄美群島民こそは間接的ではあるが、明治維新の大業に関わり、縁の下の力持ちとなって歴史を転換させた一大功労者であったと言える。
かさんつるまつ顕彰碑
玉乳かちみれば 染だしより まさり
うしろかろがろと いもれしょしりゃ
これは、奄美島唄界では知らぬ者がいないほど有名な 笠利鶴松(カサンツルマツ)の歌である。
ある年、鶴松の居村である笠利村に代官所の役人が、蜜糖調べにやってきた。見つかったら遠島か打ち首処分になるので、村民は右往左往の大騒動であった。
騒動の原因は、いくら厳しい御法度でも、自分が作った砂糖である。病人用や珍客用として、皆が隠匿していたからである。
そのとき鶴松は「心配するな、みんな私のところへ持って来なさい。そして一切を私に任せなさい」と言って隠匿物を運ばせた。翌日藩役人は鶴松方を襲うた。
鶴松は折から縁側でもろ肌ぬいだまま、丈なす黒髪を玉のような胸乳のあたりにゆるく這わせて、新緑の微風になびかせつつ機を織っていた。
美しくも悩ましいその姿態に暫し見とれていた年若い役人は、やがてムラムラと起こる本能の衝動のままに、鶴松に近づきその玉乳をしっかと握りしめた。
芳紀18歳の鶴松は、恥じろうしなを作りつつ役人のなすがままにそれを許した。そして役人がハッと我にかえって手を離したとき、鶴松は静かに口を開いて上記の歌を謳ったのである。
歌意は、「処女の乳房を握ったからには、その肉体を得たよりも満足なはずだ。さっさとお帰りなさい。」であり、役人は良心に恥じたのと返歌がができなかったため、蜜糖調べもそこそこに逃げるように立ち去ったということである。
250年もの長きに亘り続いた、奄美大島「黒糖地獄」の一片を紹介しました。
お読み頂き、アリガッサマリョウタ。
蛇足ながら、吾んが長女は笠利鶴松の六代目子孫にあたる人のトゥジ(妻)です。
id:akasyobin でした。
ワ キ ャ シ マ 散 歩 【第3部】
テゲテゲじゃ
大笠利は、三つのシマ(集落)に区分され、ワン(吾)の住まいは2区(里前)に位置している。しかし、吾家は3区(金久)で住民登録がなされている。
これには経緯があるのです。
町役場(当時は笠利町)に転入届を提出する際に、「娘と同じ金久に転入したいのだが」と申し入れたところ、役場の係員は「どちらでもいいよ」との回答を得て、笠利3区で申請・受理となったのです。
ちなみに、吾家の真向かいに在るお家は2区(里前)になり、集落が違うことによる違和感を、それぞれの行事の度に感じます。
各集落は在籍集落民からの寄付金その他によって、その年の集落財政を賄っていることから、一世帯でも一人でもワキャシマの住民が増えることを望んでいるのです。
なお、集落住民からは「八月踊り」の中で【花】という形で寄付されています。
まさに、テゲテゲ(いい加減)のなせる所以か。(話がややこしくて申し訳ありません)
笠利大橋と吾が家(真ん中の赤い屋根)
それでは、少し周辺をご案内いたしましょう。
「大笠利漁港」です。
奄美大島には各集落ごとに、設備の良し悪しや大小は別にして、このような港が造られています。
奄美では集落のほとんどが海に面しています。(2・3の例外あり)
笠利町は、比較的平地が広がり道路の整備も行き届いていますが、他の町村では集落の背後は山という地形が多いのです。したがって、隣の集落へ行くのにも山道より海上を舟を使って往く方が、安全でむしろ早く往けたと推測されます。
奄美大島には「ハブ」という猛毒を持つ蛇が生息しており、山道を歩くには常に危険が伴います。吾がこの島に移住して、一番に教えられたことは「道を歩くときは、真ん中を歩け」でした。つまり、道端の草むらには「ハブ」が潜んでおり、突然飛び出して人に襲いかかることもあるから、注意しなさいということです。
話は脇にそれましたが、「集落」を「シマ」と呼ぶようになった理由は、集落間の行き来に舟を使い港を利用していたことから、集落と集落の往復をあたかも「島」と「島」との往復という観念的現実が定着してできた言葉だと言われています。(この説に私は賛同です)
一般的には、やくざの世界で使われている「縄張り」=「シマ」が語源なのかもしれません。
「大笠利カトリック教会」です。
奄美大島を特徴付けるものの一つに、カトリック教会の存在です。その多さは目を見張るものがあります。観光ルートを走っていても、教会の建物が随所で見られます。
これは、とりもなおさずカトリック教徒の多さの証でもあり、かのカトリック都市と言われる長崎市全体のカトリック教徒の数を凌いでいるのが実情だそうです。
写真の「大笠利カトリック教会」は、つとに有名らしく(信徒でないのでよくわかりません)歴史も古く、朝・昼・夕の定時に鳴り響く鐘の音で時刻を知らせてくれます。
鐘の名前は、「アンジェラスの鐘」と呼ばれ、数奇な運命を辿りながら何事もなかったように、定時には鐘楼から美しい音色で、生活のリズムを確認させてくれています。
来る人、帰る人・・・奄美空港で
色着きはじめたパイナップル
逞しく育った 島バナナ
あやまる海岸公園 珊瑚礁を削って造った海水プール
どこまでも真っ直ぐな道 桜マラソンのコースになっています。
アダンの実 パイナップルとよく似ていますが食べられません。
今日の周辺案内はこの辺で、ではまた。
id:akasyobin でした。
ワ キ ャ シ マ 散 歩 【第2部】
皆さんこんにちは。今日は、「ワキャシマ散歩」の【第2部】を投稿します。
退屈されないように頑張ります。
ワキャシマ「金久」
金久集落での年中行事は数多くあります。その中の一つ「六月燈(ロッカツドウ)」が7月23日に行われました。
さて、「六月燈」とは???。
鹿児島県の神社・寺院で行われる祭りで、鹿児島県を中心に旧薩摩藩領だった地域で行われる行事です。薩摩藩主、島津光久が城下に観音堂を再建した時、沿道に燈篭をつけさせたことが始まりだそうです。
薩摩藩の支配下にあった奄美大島でも「六月燈」行事は伝わり、集落行事として続けられている。
ワキャシマの「六月燈」行事風景
大笠利の氏神、秋葉神社 祭り先立ち「八月踊り」が奉納されました。
ちなみに、「六月燈」にまつわる八月踊り唄を、一つ紹介しておきましょう。
シマ(集落)ぬいべがなし シマ守てィたぼれ
ナヌカナナユル(七日七夜)や 祝てィおしょろ
踊らだなうれィば シマや山なりゅり
でィわきゃふりたててィ 踊てィとよも
今年ニニ(稲)がなし 七升づきつィかば
白まみき作てィ チュナンカ(一七日)遊ぼ
唄の意味を完全に理解しているわけではありませんが、もともと奄美大島は稲作が主な産業であったのが、薩摩藩の支配下以降稲作から砂糖黍に切り替えさせられたのです。したがって、八月踊り唄や奄美民謡の中では、ニニ(稲)という言葉は頻繁に出てきますが、砂糖黍という言葉は稀にしか出会いません。
※ 砂糖黍にまつわる、切なくも哀しい物語(実話です)が沢山あります。機会があれば紹介しようと 思っています。
農作業の帰り道 オバァ~ はいポーズ
腰に下げた籠は、テェルと言い、奄美大島独自の形状をしています。
奄美の夏は、祭りが目白押しです。8月に入れば「奄美まつり」「あやまる祭り」と続きます。「奄美まつり」は、本島最大のイベントで、唄あり踊あり市内パレードそして最後は、夜空を焦がす大花火の打ち上げ。
ワキャシマ散歩も忙しくなりそうです。【第3部】乞うご期待
id:akasyobinでした。
ワ キ ャ シ マ 散 歩
みなさま、こんばんは。id:akasyobin です。
長らくのご無沙汰で、読者さまにはご心配をお掛けしましたが、体力の回復に伴い気力の方も徐々に湧き出し、ようやくキーボードを叩く気持ちになりました。
さて、私が奄美大島へ移り住んだのが2001年8月ですから、来月で丸15年になります。
私自身は「シマッチュ」のつもりで居りますが、本物の「シマッチュ」はどう思っているのか、いまだに判然としないのが実情です。
プ ル メ リ ア
「ワキャシマ散歩」とタイトルが付きましたので、まずは「ワキャシマ」の概略を説明しましょう。
「ワキャシマ」は奄美市に属し、奄美市3地区の内笠利地区の一集落です。
集落名は「金久(かねく)」と言います。他に「里前(さとまえ)」・「城前田(しろまえだ)」集落があり、3集落を総称して大笠利と呼んでいます。
地図上では、奄美大島本島の北端に位置し、大笠利は太平洋側に面しています。
大笠利から更に北上すれば、「用(よう)」という小さな集落があります。目の前にはエメラルドグリーンに輝く大海原と、珊瑚礁が残してくれた真っ白な砂浜がどこまでも続き、やがて本島の最北端「笠利崎灯台」へと誘ってくれます。
笠利崎灯台
トンパラ岩
大物狙いが集まるところ
笠利町の概略説明をするだけで、こんなにも疲れるなんて……。
今日はここまでにします。「ワキャシマ散歩」第2弾、お楽しみに。
夜のとばりが下ります
梅雨が明けました
皆さん、こんにちは。
九州地方は大変なことになっています。梅雨末期のいつもの情況とは大違いで、記録的豪雨による「洪水」「山崩れ」さらに、「突風」「竜巻」「降雹」等々・・・。
被害に遭われた方、お怪我をされた方、不幸にもお亡くなりになられた方、心からお見舞いとお悔やみを申し上げます。
さて、奄美地方は一昨日「梅雨明け」が発表され、島は一気に夏モードに入りました。
春植えの「サトウキビ」も、すっかり大きくなりました。
ひ孫も「水浴び」です。
久しぶりにブログを書きました。上手く皆様に届くかどうか不安です。
id:akasyobin でした。