ワ キ ャ シ マ 散 歩 【 最 終 回 】

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「黒糖地獄」と笠利鶴松(カサンツルマツ)

 吾家を中心に大笠利集落周辺を、3回に亘り紹介してきましたが、そろそろネタも尽きそうなので今回で最終とします。

 

 奄美大島には、溢れんばかりの民謡があります。「うたの島」と言われるほど民謡が盛んなところです。それぞれのシマにはそれぞれの唄者が居て、日夜自慢の喉を競っています。

 日本民謡大賞(日本テレビ主催)の第2回(1979)大会では、築地俊造さんがまた、第12回(1989)大会では、当原ミツヨさんが「民謡日本一」という栄冠を勝ち得られました。

 築地俊造当原ミツヨの両唄者は、奇しくもワキャシマ大笠利の在住者であったこと、またその後の大会においても笠利地区から「民謡日本一」を勝ち取る唄者が続出していることは頼もしい限りです。

 さすがは奄美民謡の継承・保存に力を入れている中心的地域である「笠利地区」ならではのことと自負しながら、一シマッチュとして溜飲を下げているところです。

 

 前置きが長くなりましたが、ここで奄美民謡について、その成り立ちや形式について少し説明させていただきます。

 

 「詩型は、上の句八、八、下の句八、六の四句三十音から成り立っており、形式・内容ともに民謡というより和歌に近い」また「詠む歌と唄う歌とが岐れない以前のまま、現在の三味線音楽に、八月踊りに歌われていて、この点において万葉やオモロ(沖縄の方言で 歌 の意)などの古典文学的な在り方とは大いに違う。概して素朴であるが、哀切極まりなき旋律には、言い知れぬ美しさがあって、深く人々の心を打つものがある」

 「奄美の民謡は文字通り庶民の偽らざる魂の叫びであり、生活の生々しい反映でもあり、また、誌されざる歴史の声である」

              【文 英吉(かざりえいきち)著「奄美大島物語」より引用】

と述べられている。

 とりわけ「庶民の偽らざる魂の叫び」「生活の生々しい反映」「誌されざる歴史の声」などは、奄美民謡を嗜み奄美の歴史を紐解く者にとっては、痛切に心に響くものがあります。

 

 奄美群島の長い歴史の中で、「黒糖地獄」と呼ばれる一時代がありました。

 

 奄美群島トカラ列島から与論島まで)は、鹿児島県に属します。明治までの藩政時代は薩摩藩の直轄領で、江戸時代には琉球王国の大部分をも支配下に置く大藩であった。

 しかし、領内の土壌の多くが稲作に適さないシラス台地で土地が貧しく、収益が上がらなかったことに加えて、台風や火山噴火などの災害を受けやすく、藩政初期から財政は窮迫して、貧乏藩と言われていたことは歴史の伝えるところです。

 特に、江戸時代の初期から中期にかけての薩摩藩は、言語に絶する窮乏ぶりだったようである。それは、薩摩藩に命じた「木曽川工事」をはじめ、徳川幕府の絶えざる経済的圧迫によものと言われている。

 しかるに、その財政を立て直し名実ともに天下の雄藩となり、倒幕明治維新の急先鋒となって、維新断行の主動力となり得たものは何か。

 

 これは、ひとえに支配下に置く琉球王国 (沖縄県)を通じての支那(中国)貿易と

奄美群島における黒糖搾取によるものであることは、幾多の史実が証明している。

 

 ここでは、薩摩藩の大島黒糖政策なるものを顧みながら「黒糖地獄」と呼ばれた時代を振り返ってみたい。

 

 慶長15年(1610)薩摩藩により、奄美大島に初めて砂糖黍を持ち込み移植したところ、好成績をあげたことから、大いに増産に努め翌年の生産高はわずかに百斤(60㎏)そこそこだったのが、5年後の元和元年(1615)には71万斤(426トン)という飛躍的生産量を示し、その後もその程度を上下しながら経過した。

 

 当時、砂糖は一般庶民に普及することなく、ごく限られた上流階級の間で珍重されていた。薩摩藩では、幕府に対する恒例の進納物として使われていた。

 このような貴重品を、貧乏な薩摩藩が着目せずにおかず、以来、産業の重点を大島黒糖に移して、大いにその収奪に努めた。その結果は上述のとおりである。

 

 薩摩藩は、大島黒糖を藩の唯一の財源として確保するため、天保元年(1830)に、大島黒糖の強制総買上げを実施した。この独占政策に伴い、一切の黒糖政策は実に峻厳を極めるようになった。

 

 これにより、島民個人の自由売買を厳禁とし、他藩への流出を防いだのである。

 島民に対しては、もしこれを犯す者があった時は「死罪」に処せられた。また、自家用などに隠匿する者は「遠島処分」に付し、製造粗悪な物を出した者には「首かせ(かぶり)」「足かせ(しまき)」の刑が科された。更に、砂糖黍の切り株が高すぎたりこれを齧ったり、製糖作業中にそれを舐めたりしただけでも札をはかされ、子供たちに至っても砂糖黍の窃食が見つかれば「棒縛り」にされ地上に曝したという。

 まさに「黒糖地獄」と言われる所以である。

 

 島の民謡に、次のような歌が残っています。

   しわじゃ しわじゃよ

   ウギ切り しわじゃ

   ウギの高切り 板はきゅり

        しわ=心配  ウギ=砂糖黍   意は省略します。

 

                             整然と生育中の砂糖黍

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 「黒糖地獄」をすべて紹介するには字数が足りません。奄美群島民の2世紀半に亘る

言語に絶する苦難は、決して偽りや誇張ではありません。

 

 かって西郷隆盛が、奄美大島に流謫中、一農夫が藩庁役人から見るに忍びない制裁を加えられているのを目撃、藩庁役人に厳しく抗議し役人に詫びさせたことや、時の代官と交渉して砂糖関係の無実の罪で拘束されている3百数十名の者を、即時釈放させたこと、さらに、西郷隆盛が大島遠島を許され鹿児島に帰着した時、旅装も解かずその足で藩庁に赴き、「大島外三島砂糖買上方につき藩庁への上申書」を提出された。

 

 上申書は5か条からなり、大島における砂糖政策の過酷極まる実情と、島民の困苦を訴えるとともに、藩庁の反省を促し、一刻も早く島民を救うよう献言等々の内容であった。

 それでも薩摩藩は「黒糖政策」を止めようとせず、島民からの搾取は続けられたのである。その結果、かっての負債500万両はすっかり償還し、嘉永元年(1848)頃には

100万両もの余剰金が出るようになった。その後藩財政は順調に進展し、江戸時代末期には天下の雄藩として、押しも押されぬ地位と実力を備え、倒幕運動の急先鋒となったことは歴史が語るところである。

 

  徳川幕府が、財政的に薩摩藩の台頭を抑圧しても、大島の黒糖が根強くこれを支えていたのである。すなわち、奄美群島民こそは間接的ではあるが、明治維新の大業に関わり、縁の下の力持ちとなって歴史を転換させた一大功労者であったと言える。

 

                                   かさんつるまつ顕彰碑

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    玉乳かちみれば 染だしより まさり

      うしろかろがろと いもれしょしりゃ 

 

    これは、奄美島唄界では知らぬ者がいないほど有名な 笠利鶴松(カサンツルマツ)の歌である。

 ある年、鶴松の居村である笠利村に代官所の役人が、蜜糖調べにやってきた。見つかったら遠島か打ち首処分になるので、村民は右往左往の大騒動であった。

 騒動の原因は、いくら厳しい御法度でも、自分が作った砂糖である。病人用や珍客用として、皆が隠匿していたからである。

 そのとき鶴松は「心配するな、みんな私のところへ持って来なさい。そして一切を私に任せなさい」と言って隠匿物を運ばせた。翌日藩役人は鶴松方を襲うた。

 鶴松は折から縁側でもろ肌ぬいだまま、丈なす黒髪を玉のような胸乳のあたりにゆるく這わせて、新緑の微風になびかせつつ機を織っていた。

 美しくも悩ましいその姿態に暫し見とれていた年若い役人は、やがてムラムラと起こる本能の衝動のままに、鶴松に近づきその玉乳をしっかと握りしめた。

 芳紀18歳の鶴松は、恥じろうしなを作りつつ役人のなすがままにそれを許した。そして役人がハッと我にかえって手を離したとき、鶴松は静かに口を開いて上記の歌を謳ったのである。

 

 歌意は、「処女の乳房を握ったからには、その肉体を得たよりも満足なはずだ。さっさとお帰りなさい。」であり、役人は良心に恥じたのと返歌がができなかったため、蜜糖調べもそこそこに逃げるように立ち去ったということである。

 

 250年もの長きに亘り続いた、奄美大島「黒糖地獄」の一片を紹介しました。

 お読み頂き、アリガッサマリョウタ。

 

 蛇足ながら、吾んが長女は笠利鶴松の六代目子孫にあたる人のトゥジ(妻)です。

 

f:id:akasyobin:20160621125754p:plain id:akasyobin でした。